驚愕の事実

最近いろいろ悟ったことの中で、一番ショッキングだったこと。
あるサイトに次のような内容のことが書いてあった。
「人間は手に入りそうで入らないもの、失ったものに惹かれる。
何かを手に入れた瞬間から、それに対する興味を失う。」
物質について考えるとわかりやすい。
水の大切さは、断水になってはじめてわかる。
限定レア製品をやっきになって手に入れようとする。
同じような心理が、人間関係にもあてはまる。
手に入りそうで入らない人を思って胸を痛める。
別れた恋人が良く思えて忘れられない。
これらはすべて、現在手に入らないという事実が、対象人物を現実以上に良く見えさせているのだ。
一方、手に入れたものの価値は、手に入れた瞬間から下がっていく。
一方的に好かれると、その人がつまらなく思える。
長く付き合うと、恋人の良さがわからなくなる。
家族の愛を当然だと思い、感謝できなくなる。
人間の悲しい習性であるが、真理だと思った。
私の経験を振り返るに。
私は長年、父に片思いしていた。
別居から始まり、離婚、再婚…。
父はどんどん手の届かないところにいっていた。
父の愛が欲しい。
そう思って悩んだり、手紙を出したり。
手に入らないくらいなら、いっそのこと縁を切ろうと思ったり…。
それらの行為は全て、私にとって父が手に入りそうで入らない存在だったからなのではないか。
その事実に気がついて愕然とした。
折しも、最近、父への執着がなくなってきたところだったのだ。
ひょんなことから父にメールアドレスを教えたところ、頻繁にメールが来るようになった。
山登りに行ったとか、映画を見たとか、たわいもない話題である。
私はそれに返信する。
今まで私が追いかけていたのはどうしたのやら、今の状態は、父が私を追いかけているように思えないこともない。
父も歳をとって、寂しくなったのだろうか?
それはともかく、この状態は、私が長年夢見ていた状況ではないか?
では私が飛び上がって喜んでいるかというと。
うれしくないことはないが、それほどうれしくてたまらないという程ではない。
20年近くにわたって切望していたことがかなったというのに。
これが、手に入れてしまったものに興味を失うということだろうか。
実は、父の関心を手に入れたと同時に、重大なことに気がついてしまったのだ。
父は、私が長年苦しみ、その愛を切望するに値する人だったのか???
なんてことだろう。
私は、私を愛してくれなかった人(父)をずっと追いかけていた。
その一方で、私を本当に愛してくれている人(母)のことを疎ましく思い、避けていた。
馬鹿である。
手に入らないものを切望するのが人間の普遍的な性とはいえ、私はその間違いにまったく気づいていなかった。
母のことは、私の思考からすっぽり抜けていた。
父のことを考える十分の一の時間も母のことを考えていなかっただろう。
母は家事が上手ではなく、教養もなく、愚痴が多くて、だらしないところも多かったため、とても尊敬できなかった。
離婚で苦労したせいか、占いや宗教に頼ることが多く、価値観もまったく合わなかった。
はっきり言うと、恥じていた。
母とは話が通じない、私は母のようにはならない、そればかり思っていた。
父は母とは真反対の性格で、几帳面で頭が良く、社会的な地位もあり、私は父を絶対的に尊敬していた。
しかし、たしかに母は完全な人ではなかったが、非常に情のある人であった。
少なくとも無償の愛で子供を愛してくれていた。
今もそうである。
私はそれを空気のように当たり前だと思い、つい最近まで感謝したことがなかった。
考えてみれば、私は母が私を愛しているかどうかについて、微塵も疑ったことがない。
私が母を避けることはあっても、母に見捨てられるなんて考えたこともない。
父は私を嫌いなのだろうかといつも不安だったのとは対象的である。
父は、悪い人ではないが冷たいところがある。
かくして私は、たいして愛してくれない人に尊敬と愛をささげ続け、本当に愛してくれる人に対しては無関心で対応してきたのだった。
母の気持ちを思うと、胸が痛い。
ただ、遅くても今気づくことができてよかった。
これからはできるだけ母に感謝を伝えたい。
また、母のことだけではなく、本当に大事なものに気づける人になりたい。